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【記念講演】 演題「読書がもたらすもの」

 読書とは何の役に立つのだろう。わたしのように小説――つまりフィクションを書いていると、「所詮は作り話でしょ?」「嘘のことなんて読んでも仕方がないんじゃない?」と面と向かって言われることがある。それでノンフィクションなら読むと仰るならともかく、本そのものを手に取らないという方も決して珍しくない。
 確かにわたしの仕事は物語を紡ぐことで、物語とは極端な言い方をすれば確かに作り話だ。だがフィクションが一つも存在しない世界であれば、人は自分の半径数メートルの出来事しか知らずに生きていくのではなかろうか。物語によって、人は男にも女にも、子どもにも老人にもなり得る。未知の世界にまず物語を通じて触れ、次は自らの知識と経験でそこに踏み込む。人間の小さな生は、読書という行為と言葉というツールによって、世界そのものとつながってゆく。
 つまり極言すれば読書と言葉は、人が世界を把握するための手段であり、人間や社会そのものにも等しい存在だ。「近世日本人の識字率は八割、これは世界トップクラスだった」とは、今日でも信仰に近いレベルで語り継がれている逸話だ。だが識字率という言葉の定義をさておいても、これが都市伝説に過ぎず、近世農村では自らの名を書ける人間が数パーセントに過ぎなかったことは、今日の研究で明らかにされている。明治後半でも、新聞や書物をすらすらと読める者は地域によっては一パーセント程度だったとの分析もある。それからほんの百年の間に、日本人は初等教育において基礎的な読み書きを身に着けられるようになった。しかし読み書きがあまりに日常的な存在で、誰もが日本語をごく当然に操り得るがゆえに、読書と言葉の重要性はかえって軽んじられているきらいがある。
 だが社会が複雑化した今日であればこそなお、我々はそれを把握する手立てを磨き続けねばならない。読むこと、そして読めることは誰にも奪われぬ個々人の権利なのだから。

【講師】 小説家 澤田  瞳子(さわだ  とうこ)氏

澤田写真.jpg

【プロフィール】
1977年京都府生まれ。同志社大学文学部文化史学専攻卒業、同大学院博士課程前期修了。正倉院文書・奈良仏教史の研究にたずさわった後、2010年『孤鷹の天』で小説家デビュー。
2011年、同作で第17回中山義秀文学賞を受賞。13年、『満つる月の如し 仏師・定朝』で本屋が選ぶ時代小説大賞2012ならびに第32回新田次郎文学賞を、16年『若冲』で第9回親鸞賞を、20年『駆け入りの寺』で第14回舟橋聖一文学賞を、21年『星落ちて、なお』で第165回直木賞をそれぞれ受賞。
他の著書に『泣くな道真 大宰府の詩』『与楽の飯』『火定』『落花』『輝山』『月ぞ流るる』『のち更に咲く』『赫夜』「京都鷹ヶ峰御薬園日録」シリーズなど多数。同志社大学客員教授。

撮影 / 松山勇樹

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